■祈れば雨が降るのか?
2025年8月4日現在、日本ではかつてないほど深刻な水不足が各地で発生しています。
小泉環境大臣が新潟・南魚沼市のため池を視察し、「必要があれば給水車も出します」と述べたことが話題になりました。
とはいえ、生活用水と異なり、水田の潤沢な給水を給水車でまかなうことは現実的ではありません。
同時期、上越市三和区越柳では、31年ぶりとなる「雨乞い」の神事が執り行われました。
すると、神事の最中に実際に雨が降ったと報じられ、多くの人が驚きと感動をもって受け止めました。
偶然なのか、あるいは人々の祈りが“天”に届いたのか。
科学的に説明しきれないこの出来事は、古代から続く「天と人のつながり」という感覚を現代人に思い起こさせたのではないでしょうか。
そこで今回は、戦後日本に現れた神示文書『日月神示(ひつきしんじ)』の記述の中から、「異常気象」「干魃」「温暖化」といった現代の自然現象に関連すると解釈される内容をいくつか抜粋し、人間の心と自然環境の関係を霊的・象徴的に読み解く視点をご紹介します。
▼『日月神示』とは何か
『日月神示』は、1944年から岡本天明氏によって“自動書記”の形で書き記されたとされる全38巻の神示文書です。
最初の啓示が降ろされたのは、千葉県成田市の麻賀多神社にある「天之日津久神社」とされ、以後、終戦を挟む数年間にわたり、さまざまな神示が記されていきました。
内容は非常に象徴的かつ難解であり、政治・経済・宗教から自然災害や人心の乱れに至るまで、多岐にわたる予言的要素を含んでいます。
一方で、原書が公開されていないので解読者の誤訳や意訳をチェックできず、時代的な背景から戦中の国家神道的な思想の影響もあり、読む際には批判的かつ冷静な視点、サニワが必要です。
▼異常気象・干魃・温暖化に関する記述
『日月神示』のなかで、現在のような気候異変を示唆するような言葉は、しばしば神意と人心の関係を前提に記されています。
以下は、その一部です。
▼干魃に関する言葉
「この道理がわからねば、雨一滴も降らんぞ、日照りつづきとなるぞ。
金の力で世の中動いてゐるから、人民の心が神から遠くなってゐるからじゃ。
神の御用の邪魔をするものは、上からも下からも、世の中からも、どこからも取り潰すぞ。」
→『地つ巻 第五帖』
また、次のようにも述べられています。
「日照りは神の申すことを聞かぬからじゃ。
聞けばすぐに雨となる。
神に逆らふ者、悪に加担する者には火が降るぞ。
火の雨となることもあるぞ。
御用の民となりてくれよ。」
→『黄金の巻 第二十四帖』
これらの表現は、単なる宗教的比喩として片付けることはできません。
天候は「天の機嫌」であり、社会のあり方や個々人の精神状態によって左右されるという伝統的な自然観が表れています。
▼温暖化や高温に関する象徴的表現
現代の温暖化や熱波に対応するような記述もあります。
「火と水と気とが乱れるぞ。
火は熱、乾き、爆発……火を正しく使はねば火の禍となるぞ。」
→『月光の巻 第二十五帖』
「陽の力が増して地が焼けることもあり、山が噴き、気が燃え、熱が人を苦しめるのぞ。
人民の怒りが熱となって天地に伝わっておるのじゃ。」
→『松の巻 第七帖』
つまり、『日月神示』では熱や干魃といった自然の変化が、単なる気象現象ではなく「人間の精神エネルギーの投影」であると読み解いています。
このような観点は、現代の気候変動対策には含まれないスピリチュアルな視座ですが、一部の人々にとっては共鳴するものかもしれません。
▼祈りの本質とは
「まことの信心、まことの行いなければ、いかに祈れども雨は降らん。
心の奥底、うそ偽りなく磨いてこそ、天地の理にかなふのじゃ。」
→『紫金の巻 第十三帖』
このように、『日月神示』では「祈り」は形式ではなく、「まことの心」を通じて天と響き合うものとされています。
今回の上越市における雨乞い神事も、まさにその精神を体現するものであったと解釈できるかもしれません。
▼科学では測れないものに目を向けるということ
『日月神示』は、科学的根拠やデータに基づいた文書ではなく、霊的な示唆に満ちた象徴的言語で書かれています。
だからといって、そこに描かれた思想や警告が無価値であるとは限りません。
人間の精神状態が世界に与える影響、心の波動が自然と共鳴するという観点は、現代のSDGsやテクノロジー主導の気候対策だけでは補えない領域を照らしているのではないでしょうか。
『日月神示』は非科学的な世界の言葉ではありますが、聖書の預言と同じように、そこに込められた「気づき」や「内面の目覚め」のメッセージに、今こそ耳を傾けてみる価値があると感じています。
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