■ 石破総理は「神の使徒」なのか?
しかし、希望の光が見えたと思えば、そこに広がるのは別の深い闇だった。
辞任の声が高まるなか、石破茂総理本人は微動だにせず、「説明責任は丁寧に果たす」との一点張り。
だが、我々が直視すべきは、彼の頑なな態度の奥底にある「宗教的信念」である。
▼カルヴァン主義とは何か?
石破氏が影響を受けたとされるのは、キリスト教プロテスタントの一派「カルヴァン主義」である。
この宗派の核心には「予定説」がある。
つまり「すべての運命は神があらかじめ定めており、人間の自由意志は関与できない」というものだ。
石破氏にとって、総理の座とは「神が自分に与えた使命」であり、辞任することはその神意に逆らう行為となる。
だからこそ、彼の脳内では「辞任」という選択肢自体が存在しないのだ。
▼メシア・コンプレックスに支配された宰相
このような考え方は、精神分析で言うところの「メシア・コンプレックス(Messiah Complex)」とも重なる。
「自分こそが民を救う存在」であると無意識に信じ込み、反対意見や制度の枠組みを「神の使命の障害物」として排除していく思考パターンだ。
石破氏が繰り返し語る「総理は天命」「使命を果たす」といった言葉は、政治家の論理ではなく、宗教的救済者の語り口である。
▼キリスト教的選民思想が政権に及ぼす異物性
日本の政治において、キリスト教的価値観は少数派である。
とくにカルヴァン派のような厳格な予定説や選民思想は、日本的な「和」や「共感」とは根本的に噛み合わない。
にもかかわらず、そのような神学に立脚する人物が政権の中枢に立ち続ける場合、それは国家にとって極めて危険な兆候だ。
「信仰は個人の自由」とは言うものの、それが公共政策の意思決定にまで影を落とし、民主的正統性を歪めるのであれば話は別である。
▼総裁辞任後も総理に居座る“神政”リスク
制度上、自民党総裁を辞任しても内閣総理大臣を継続することは理論上可能だ。
つまり、党が総裁として認めなくても、「総理としての使命」を信じる石破氏は続投できてしまう。
「神が決めたことだから自分には辞める自由がない」などという論理が、民主国家の政治判断を押し潰してしまう危うさを、我々はもっと直視すべきである。
▼石破談話という懺悔の儀式の恐れ
8月15日に予定される「石破談話」にも注意が必要だ。
キリスト教的な贖罪観や原罪意識が反映された場合、それは日本の歴史認識を過剰に貶めるような懺悔談話になる可能性がある。
これは単なる外交文書ではない。
信仰を背景にした思想信条が国家としての立場を形成しうる、極めて重大な局面なのだ。
▼神ではなく、国民を見よ
石破茂総理の頑なすぎる姿勢。
その裏にはカルヴァン主義的予定説と、救済者意識(メシア・コンプレックス)が交差した、極めて強固な精神構造が見え隠れする。
もはやこれは「説明責任」の問題ではない。
彼の中で、政(まつりごと)とは神の意志を実行する行為に変質している。
この国のかじ取りを任せてよいのは、「神の声を聞く者」ではなく、「民の声を聞く者」ではないのか?
▼ 石破総理は「神の使徒」なのか?
両院議員総会の開催がようやく決定した。
しかし、希望の光が見えたと思えば、そこに広がるのは別の深い闇だった。
辞任の声が高まるなか、石破茂総理本人は微動だにせず、「説明責任は丁寧に果たす」との一点張り。
だが、我々が直視すべきは、彼の頑なな態度の奥底にある「宗教的信念」である。
▼カルヴァン主義とは何か?
石破氏が影響を受けたとされるのは、キリスト教プロテスタントの一派「カルヴァン主義」である。
この宗派の核心には「予定説」がある。
つまり「すべての運命は神があらかじめ定めており、人間の自由意志は関与できない」というものだ。
石破氏にとって、総理の座とは「神が自分に与えた使命」であり、辞任することはその神意に逆らう行為となる。
だからこそ、彼の脳内では「辞任」という選択肢自体が存在しないのだ。
▼メシア・コンプレックスに支配された宰相
このような考え方は、精神分析で言うところの「メシア・コンプレックス(Messiah Complex)」とも重なる。
「自分こそが民を救う存在」であると無意識に信じ込み、反対意見や制度の枠組みを「神の使命の障害物」として排除していく思考パターンだ。
石破氏が繰り返し語る「総理は天命」「使命を果たす」といった言葉は、政治家の論理ではなく、宗教的救済者の語り口である。
▼キリスト教的選民思想が政権に及ぼす異物性
日本の政治において、キリスト教的価値観は少数派である。
とくにカルヴァン派のような厳格な予定説や選民思想は、日本的な「和」や「共感」とは根本的に噛み合わない。
にもかかわらず、そのような神学に立脚する人物が政権の中枢に立ち続ける場合、それは国家にとって極めて危険な兆候だ。
「信仰は個人の自由」とは言うものの、それが公共政策の意思決定にまで影を落とし、民主的正統性を歪めるのであれば話は別である。
▼総裁辞任後も総理に居座る“神政”リスク
制度上、自民党総裁を辞任しても内閣総理大臣を継続することは理論上可能だ。
つまり、党が総裁として認めなくても、「総理としての使命」を信じる石破氏は続投できてしまう。
「神が決めたことだから自分には辞める自由がない」などという論理が、民主国家の政治判断を押し潰してしまう危うさを、我々はもっと直視すべきである。
▼石破談話という懺悔の儀式の恐れ
8月15日に予定される「石破談話」にも注意が必要だ。
キリスト教的な贖罪観や原罪意識が反映された場合、それは日本の歴史認識を過剰に貶めるような懺悔談話になる可能性がある。
これは単なる外交文書ではない。
信仰を背景にした思想信条が国家としての立場を形成しうる、極めて重大な局面なのだ。
▼神ではなく、国民を見よ
石破茂総理の頑なすぎる姿勢。
その裏にはカルヴァン主義的予定説と、救済者意識(メシア・コンプレックス)が交差した、極めて強固な精神構造が見え隠れする。
もはやこれは「説明責任」の問題ではない。
彼の中で、政(まつりごと)とは神の意志を実行する行為に変質している。
この国のかじ取りを任せてよいのは、「神の声を聞く者」ではなく、「民の声を聞く者」ではないのか?
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